保護犬(猫)とは、何らかの理由で飼い主の手から離れてしまった動物や、ペットショップでの売れ残りの動物など、その生い立ちには様々なものがありますが、保護犬のほとんどが、人間の勝手な欲望の末に生まれているといっても過言ではないでしょう。
よく大型ショッピングセンターなどに、子犬等が展示されたペットショップが入っていたりします。私たちは普段何気なくそこに立ち寄り子犬や子猫を見て、可愛いなぁとか飼いたいなぁとか、つぶやいていたりします。しかし、よく考えてみれば、生活必需品ではなく食品でもないのに、いつもペットショップに行けば常に彼らは「商品」として陳列されています。そして、常に「新鮮な商品」として、新しい犬や猫が陳列されていくのです。彼らのすべてに買い手があり、引き取られていくわけでは無いのに、です。そもそもこのような人間の都合で「商品化」された為に、彼らは計画的に「生産」されなければいけない状況になっているのです。
「商品」は生産される為には「生産工場」が必要であり、「繁殖」=「商品の製造」 となっています。
我が家で引き取った犬ちゃんは「子犬繁殖工場」で繁殖の為だけに生きてきた犬でした。「子犬繁殖工場」についてはパピーミルという単語でよく検索されているようで、これはこの単語で調べてもらえば、その悲惨さは容易に感じ取れる事でしょう。
食品は売れ残って消費期限が過ぎれば廃棄される。このような大量の食料廃棄も近年の大きな問題ですが、犬や猫等がペットショップで買い手がいつまでも見つからなければ、店頭には置いておけなくなり、何らかの処理をされることになるのです。
現在そういった環境下での受け皿として、保護犬(猫)の「引き取り業者」があります。ペットショップから格安で買取して、販売や繁殖等を行います。問題は環境が整えられていない「悪質な引き取り業者」があるという事。繁殖数の上限を設けずにひたすらに繁殖させたり、不衛生で劣悪な環境で飼育して衰弱、死んでもいいような状態で放置される業者があるということです。
このような現実を私たちは知らない。あるいはあえて見ようとはしない。(他にも同じような事はたくさんありますが。。ここからはまた別の話、また別の時に書く事にします。)
現状が私たち「人間」にとってWIN-WINな関係が成り立ってしまっていることも大きな問題でしょう。
「ペットショップ」は、売れ残りの犬を安く処理でき、子犬が欲しい飼い主に商品価値の高い子犬を提供する事ができる。-WIN
「引き取り業者」は、売れ残った犬を格安で入手してペットショップより安値で販売、あるいは繁殖させれば商品価値の高い子犬を販売できる-WIN
「飼い主」は、子犬では無かったりするが、ペットショップより大幅に安く買う事ができる。-WIN
みんなにとっていい事ばかりです。そう、人間だけにですが。。。負の部分は全て動物に背負わせていますね。。
現在、様々な保護団体の方がこのような状況を打破する為に保護活動をされており、今回我が家も保護活動をされている方との縁によって犬ちゃんを引き取る事ができました。
保護活動されている方は、「この活動自体が無くなる事」が目標だとおっしゃられていました。
犬や猫は古代から私達人間にとって「共に生きていくパートナー」です。そのパートナーが過剰に「生産」され、余剰分は「廃棄」される状態になっています。
こういった現状を打破するのは、犬や猫を飼いたい時にきちんと管理されているブリーダーから購入する事。出所のわからない、特に子犬を展示するようなペットショップでの購入自体が先ほどのするべきではないと改めて感じました。現代社会は「需要」があれば「供給」できるようにしようとする。しかしこれが生き物である場合には、私たちはもう少し踏み込んで考えなければいけないと考えます。日本以外の国では既に繁殖に関する法律や飼い主が許可制になっていたりと、色々な動きが出ています。
良識あるブリーダーにとっても、動物と人を繋げる「仕事」であり、儲けが無ければ成り立ちません。しかし人はいつだって安い「商品」を購買しようとします。安いペットショップで購入できない法律にして厳格に規定し、安易に動物を飼えない、という方向性にもっていくしかないと感じました。気軽に動物に飼う事ができない世界は息苦しい世界のようにも感じますが、私たちがいかにも「普通」だと考えてきた「常識の世界」は命を「商品」として軽く扱いすぎていたという事なのでしょう。
今回、我が家に来てくれた犬ちゃんは我が家の癒しになっていますし、犬ちゃんとの出会いでこのような考えに至り、また発信したいと考えるようにもなりました。
私の心情をも変えてくれた彼らに尊敬の念を抱きつつ、これからも人間の良きパートナーでいてくれる為に、私たちはもう一度彼らとの関係性を見直さなければいけません。。
資本主義社会の中では、具現化できる物ならなんでも、あるいは精神でさえもこのように「商品化」されてしまうという弊害があるようです。
ここからはまた別の話、また別の時に書く事にします。